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東京地方裁判所 昭和44年(刑わ)1646号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件の公訴事実

被告人に対する本件公訴事実は、次のとおりである。

一、本位的訴因

被告人は、医師として、東京都千代田区有楽町二丁目二番地隆和ビル三階、日比谷整形外科医院第一診療所に勤務し、医業に従事しているものであるところ、昭和四二年二月二二日午後三時ころ、右診療所において、米倉紀子(当時二六年)に対し、いわゆる豊胸術を行なうため、同女の左右胸部にワセリンを主体とした「プラスノーゲンS」と称する薬液を約六〇CCずつ注入しようとしたが、右薬液は粘稠性が高く、また、注入量が多量であつたから、通常の注射器具を使用すると注入に特に力を要するうえ、注射筒の交換をひんぱんに行なうこととなるため、注射針の針先が移動して血管に損傷をきたし、肺の血管内に右薬液が入つて肺栓塞を起こすおそれがあつたから、医師としては、特に針先が太く、かつ、とがつていない注射針、注射筒の交換を必要としない容量の大きい注射筒を使用する等注入の際、針先の移動により、血管に損傷を与えたりすることのないよう特段の措置を講じ、もつて、危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、通常の注射器具(注射筒の容量約二CC)を使用し同女の左右胸部に、それぞれ、まず麻酔薬を注射し、注射筒を引いて、注射器内に血液の流入がなく、したがつて、針先が血管内に入つていないことを確認したのみでその後の針先の移動を顧慮することなく、注射針をそのままとして、右注射筒を前記薬液約二CC入りの注射筒と交換して同女の胸部に注入し、引き続き注射筒の交換をくりかえして、右薬液各六〇CCの注入を行つた過失により、その間、注射針の針先を移動させて血管を損傷させ、右薬液を同女の肺血管内に流入させ、同日午後一一時二八分ころ、同都板橋区大山町三四番地鶴見四郎方において前記米倉を左右両肺栓塞症により死亡するに至らしめたものである。

二、予備的訴因

被告人は、医師として、東京都千代田区有楽町二丁目二番地隆和ビル三階日比谷整形外科医院第一診療所に勤務し、医業に従事しているものであるところ、昭和四二年二月二二日午後三時ころ、右診療所において、米倉紀子(当時二六年)に対し、いわゆる豊胸手術として同女の左右乳房に、先端の尖つた注射針および二CC入りの注射筒を用いてプラスノーゲンSと称する薬液を規六〇CCずつ注入しようとしたのであるが、針先の尖つた注射針を用いて右薬液を注入する場合には、あらかじめ同薬液を注入する部位を剥離しておき、薬液注入の際注射針が乳腺下結合組織およびその付近の血管に触れることのないようにし、注入開始時および注射針を動かした時はその都度出血の有無を確認することはもとより、被告人は既に同年一月二四日同女の両乳房に同薬液を各一二〇CC注入していたのであるから、新たに注入する同薬液の圧により乳房軟部組織を破壊し、前記血管を損傷することのないよう同薬液の注入量を調整すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、注入部位を剥離せず、かつ注入開始時注射筒を引いて出血の有無を確認したのみで、その後の針先の移動を顧慮することなく出血の有無をも確認せず、また同薬液の注入量を顧慮することなく、漫然と同女の両乳房に同薬液を各六〇CC注入した過失により同所の血管を損傷させ、同薬液を同女の肺血管に流入させ、よつて同日午後一一時二八分ころ同都板橋区大山町三四番地鶴見四郎方において、同女を左右両肺栓塞症により死亡させたものである。

第二被告人の行つていた豊乳術の方法

〈証拠〉を総合すると被告人は公訴事実記載の日比谷整形外科医院第一診療所に医師として勤務し、いわゆる隆鼻術、豊乳術などの美容整形術を主とする医業に従事していたものであるが、昭和四〇年から昭和四二年二月ころまでに被告人自身約五〇〇例の豊乳術を行ない、同医院全体では約一、五〇〇例の豊乳術を行つてきたが、同医院および被告人の豊乳術は次のような方法で行われてきた。同医院においては、豊乳術の方法として同整形外科医院の山中医師の開発にかかるプラスノーゲンSと称するワセリンを主体とした補てん液を乳房底部の乳腺下結合組織内に注射器により注入する方法を採用しており、その施術の詳細は次のとおりであつた。すなわち、乳頭を通り正中線と平行に走る線(これを乳線という)と乳房外輪下縁との交わる点から指一本の幅だけ内方に寄つた点を刺針点とし、この刺針点から注射針を体内に刺入して麻酔薬および補てん液を注入するのであるが、先ず三分の一皮下針を刺針点に刺入して皮内に麻酔薬を少量注射した後更に同注射針を乳線に平行な姿勢で上方(人体の頭部の方)に進め左右の乳頭を結ぶ線(乳頭線という)の付近に達するまで刺入し、注射針を後退させながら麻酔薬を注射するという方法をくりかえして二CCの麻酔薬を注射し、次に二分の一カテラン針を同刺針点から前記と同じ経路を辿つて体内に刺入し、前記同様の方法で麻酔薬五CCを注射し、更に一分の一カテラン針を同刺針点から前記と同じ経路を辿つて体内に刺入し、針先が乳房外輪の上縁より約一センチメートル下方(乳房中央寄りの方向)に下つた位置に達したことを表面から指を当ててその感触により確かめ、かつ針先が乳房底部の乳腺下結合組織内にあることを刺入時の抵抗感により判定した後、麻酔薬を注射しながら注射針を後退させて針先が乳頭線に達するまで引くという方法をくりかえして一〇ないし一五CCの麻酔薬を注射し、麻酔薬の注射がすんだ後に同注射針をもう一度刺入して前記の針先が達した最上限より更に二、三センチメートル下つた(前記に同じ)ところに針先が達するまで進めて針先が乳腺下結合組織内にあることを前記の方法で判定し、その位置で同注射針を止め(この場所を補てん液注入部と仮称する)同注射針の針の根本(注射筒との接合部分に近い四角の部分)をコッヘルで狭んで、施術者が左手でコッヘルを握り、その手を被術者の身体に密着させるという方法で同注射針を固定し、次に固定した注射針から麻酔に使用した空の注射筒を取り外して補てん液の入つた二CC入りの注射筒を補助者から受け取りこれを施術者が右手で操作して固定してある注射針に接続して、一筒(二CC)当り約一五秒の時間をかけて補てん液を注入し、一筒の注入が終れば補助者の用意した交換用の二CC注射筒を受取り、順次注射筒のみを交換しておおむね一乳房当り一二〇CCの補てん液を注入し、注入が終つた後施術部位付近に適宜マッサージを行つて、初回の豊乳術を終り、約一カ月後に形状補正のために、初回と同様の方法で二回目の豊乳術を行なう。補てん液注入量は被術者の体格、乳房の形態、性状などにより異なるが、成人女子の場合おおむね初回と二回目とを合わせて一乳房当り二〇〇CC位を標準としていた。そして右施術において麻酔薬注射のために注射針(いずれも先端が鋭利になつている)を体内に刺入する際は、針先が血管内に刺入し、あるいは針先により血管を損傷するおそれがあるところから、刺入時に必ず注射器のポンプ(注射筒)を引いて陰圧をかけ、これにより注射筒内に血液が流入しなければ刺入部に出血がなく、したがつて血管損傷等がないものと判定して麻酔薬を注射し、麻酔薬注射後補てん液注入に移る場合にも一分の一カテラン針につけられた注射筒(麻酔薬の全量を注射し終つて空になつている)に右同様に陰圧をかけながら体内に刺入して前記の補てん液注入部まで針先を進め、注射筒内に血液が流入しないことを確めた後、注射筒を補てん液の入つた注射筒と交換して注入を開始し、一旦補てん液注入が始まつた後は粘稠性の補てん液が注射針内に詰まつていて右の方法によつては出血の有無の確認ができないことと、注射針を固定していて注入時に針先で血管を損傷するおそれがないとの理由で、その後は出血の有無確認のための特段の方法を講じていない。

日比谷整形外科医院および被告人の行つていた豊乳術の方法は以上のとおりである。

第三米倉紀子に対する豊乳術施行と同人の死亡の経過

〈証拠〉を総合すると、米倉紀子に対して豊乳術が行われ、同人が死亡するにいたつた経過は次のとおりであつたことが認められる。

被告人は前記日比谷整形外科医院第一診療所に勤務中、昭和四二年一月二四日、同診療所を訪れた米倉紀子(当時二六年)から豊乳術の依頼を受けた。同人は経産婦であつたが、通常の成人女子よりかなり乳房が貧弱であり、同日直ちに、同人の左右乳房部に前記の方法により各プラスノーゲンS一三〇CCずつの注入により、初回の豊乳術を受けた。そして、初回の豊乳術施行によつては同人の健康状態に異常は認められなかつた。同人は初回の豊乳術を受けた後福島県に帰り、約一カ月後に二回目の豊乳術を受けるために上京し、同年二月二二日午後三時ころ同診療所を訪れ、同日午後四時ころ、健康状態について被告人の診断を受け、異常がないところから直ちに前記の方法により二回目の豊乳術として、左右乳房部にプラスノーゲンS各六〇CCずつの注入を受け、約四〇分後にその術を終えた。

右二回目の豊乳術においては麻酔薬注射および補てん液の注入方法、注射注入時における出血の有無確認の方法は前記のところと全く同様であり、麻酔薬注射時および補てん液注入直前においていずれの場合も、陰圧をかけて注射筒内に血液の流入がなく注射針刺入部に出血がないことが確められたので、注射器を前記の方法で固定し二CCの注射筒を左右乳房ともそれぞれ三〇回交換して先ず左乳房、次に右乳房の順に補てん液を注入したが、その間米倉紀子の状態に外見上異常は見られなかつた。

補てん液の注入を終えて約一〇分ないし一五分後施術室から別室に移つた米倉に対し、看護婦により施術部位のマッサージを始めたころ、同人が気分の不快と吐気を訴え、顔面の血色が褪せてきたので、同人を横臥させて休養させるとともに貧血症状と診断のうえ、強心剤ビタカンファ一CCを注射したがその後も体調の回復が思わしくなく、約三〇分ごとにビタカンファ一CC宛を施用し、同日午後七時すぎころ同人の妹が迎えに来て、同人を妹方に連れ帰ることになつたので、約三〇分間酸素吸入を行なつた後、同日午後八時ころ、同人を二、三人で介添えして室外に連れ出し、自動車に乗せて途中同人が苦痛を訴えたので更に添乗していた看護婦によりビタカンファ一CCを施用し、約一時間後東京都板橋区大山町三四番地鶴見四郎方に送り米倉を鶴見方の二階に休ませて、更にビタカンファ一CCを施用したのであるが、付添の看護婦などが帰つた後、米倉が胸部に極度の苦痛を訴え、遂に同日午後一一時二八分同所において死亡するにいたつた。

第四米倉紀子の死因と注入された補てん液の血管内吸収の経過

医師石山昱夫、同上野正吉の共同鑑定書二通、上野正吉作成の胸部カラー写真、証人上野正吉の当公判廷における供述(以下上野証人供述という)および前掲各証拠によれば、米倉紀子の死因と、死因に直接の影響をもたらした、注入補てん液の血管内吸収の経過は次のとおりであることが認められる。

一、解剖所見、体内貯留異物の科学検査結果および死因

1、左右胸部各乳房の下内方九センチメートル(左)および八センチメートル(右)の部にほぼ対象的に各一個の粟粒大の注射針痕があり、注射針痕部に拇指頭面大の淡紫紅色部があつて、割を加えると同じ大きさの出血がある。

2、胸腹部開検の結果、左右乳房部の乳腺組織の下部から大胸筋の組織にかけて粘稠性の白色ゼリー様物が大、小の固まりになつて多量容れてあり、一部はやや血液を混じ、一部は白色のほとんど液状の状態で二種類が存在している。左右乳房の下方やや内方の筋肉内に大きさそれぞれ鵞卵大の範囲にわたる出血がある。

心臓の右房、右室が左側に比して拡張し、内方に、乳房下に存在した前記物質と同じ物質が主として右室内に、一部軟凝血塊とまざりあつたものが存在し、心臓血内にも上面に膜状の前記同様物が付着している。

左房室内には心内膜下出血を認めるが、前期同様物の充てんはない。

左肺は表面淡紫紅色を呈し、著しく膨隆し、肺動脉内には前記同様物を認めない。

右肺の性状も左肺と同様である。

肺の小動脈、毛細血管内には円形状の空虚部が存在し、この空虚部分にはズダンⅢ染色により燈色に染色する均一な物質が充満している。血管はこのために著明な拡張を示し、急性の肺膨張障碍像を表わしている。

3、脳の神経細胞には無酸素症の病現象が著明に認められ、一部血管内には肺組織にみられたと同様のズダンⅢ染色陽性の物質が少許検出された。

4、死因は、肺の小動脈および毛細血管内に前記の物質が充てんされたことによる左右両肺の重篤な栓塞症である。左右両肺の小血管および毛細血管に充てんされた前記物質は、前記乳房底に存在している白色粘稠の物質と同じものであり、主としてワセリンが含有されている。

二、補てん液の血管内吸収の経過

前記物質が左右両肺の動脈小血管および毛細血管内に充てんされた経過は、前記豊乳術により左右乳房部に注入された補てん液であるプラスノーゲンS(ワセリンを主体とするので以下ワセリンという)が左右乳房底の乳腺下部から大胸筋にかけて前記解剖所見にみられる鵞卵大の出血のある部位における静脈血管の損傷箇所(左右双方)から静脈の吸引力によつて吸収され、逐次静脈内に入つて心臓内に流入し、心臓の右心房、右心室を経て左右両肺の動脈内に流入し、逐次小動脈および毛細血管に入つて貯留するにいたつたものである。

第五血管損傷の起因の考察

前記のとおり、米倉紀子の死因は左右両肺の重篤で栓塞であり、その栓塞をもたらしたのは前記豊乳術の際、左右乳房底部の出血部位における静脈血管の損傷に伴ない、注入したワセリンが血管の損傷箇所から吸収されて血管内に流入したことによるものと認められるのであるが、このような血管の損傷がいかようにして生じたものであるかについて、以上の豊乳術施行から死亡にいたるまでの経過、解剖所見および死因等の各事実を基礎として考察する。

一、米倉紀子が二回目の豊乳術を受ける前にすでに前記部位の血管に損傷を帯びていたと考えるべき症状や資料は何も見当らないので、血管の損傷は豊乳術の施行の段階で生じたものとみなければならない。そこで、可能な、血管損傷の原因として考えられるものは次のとおりでる。

1、ワセリン注入準備行為としての麻酔薬注射のために注射針をくりかえし刺入するにあたり針先を血管に穿刺したかまたは針先で血管を切断し、あるいは血管壁を損傷した場合、

2、ワセリン注入時に注射針の針先が移動し、これにより、一と同様の血管損傷が生じた場合

3、ワセリンの注入により乳房底部の組織内の圧力が急激に増大し、その圧により同部位の組織が断裂し、これに伴なつて血管が損傷した場合

4、ワセリンの注入により乳房底部の組織内の圧力が増大したのに加え、更に注入後のマッサージにより外部から圧迫し、それらの複合圧により3と同様に組織の断裂が生じ、血管が損傷した場合

二、可能な血管損傷の原因として考えられるものは以上のとおりである。

そこで、本件の米倉紀子の前記血管損傷が前記1ないし4のいずれの原因にもとづいて生じたのかを更に検討する。

その前に乳房の組織内における血管の分布について眺めてみると、証人福田修の当公判廷における供述(以下福田証人供述という)、第二回公判調書中証人平山峻の供述記載部分(以下平山証人調書(一)という)によると、乳房組織内には、おおむね内胸動静脈の穿通枝が乳房の正中線側から中央部に向い、また外側動静脈の穿通枝が乳房の上方(人体の頭部の方)から下方に乳房の外側をめぐり下垂する形で、更に肋間動静脈の穿通枝が大胸筋および乳腺下結合組織を穿通して、これらの血管はそれぞれ乳頭の方に向い、多数の細枝に分れ、その末端は毛細血管となつて広く分布し、これらの血管のうちには乳房の底部付近においては径1.5ミリメートルないし2ミリメートル位の太さをもつものもあるが、乳房部における小血管ないしそれより太い血管の分布は概して乳房の上側内側、外側の周辺部に密であり、また乳腺下の結合組織内には血管が少ないことが認められる。

次に注射針を用いて注射する場合は必然的に針先により毛細血管の幾分かを損傷するがこの場合の毛細血管の損傷によつては前記解剖所見に見られるようなワセリンの吸収はあり得ないことが前記証拠によつて認められるので、本件においてワセリンの吸収を結果した血管の損傷は前記の内胸静脈、外側胸静脈、肋間静脈の血管ないしは小血管の損傷と認められ、これらの血管の幾分かが損傷したものと推断される。

そこで、前記1の可能性について検討すると、麻酔薬注射の際は、注射針を刺入する都度陰圧をかけて注射筒内に血液が流入しないことを確認し、麻酔薬注射終了後ワセリン注入のために注射針を最後に刺入するときも同様の確認を行つているのであるからこの段階では出血がなかつたとみるべき可能性は極めて大きく、また血管分布の状況からみて注射針の刺入経路は血管の少ないところで、刺入時に血管を損傷する危険は少ないと考えられること、本件においては前記解剖所見のように左右乳房底部に全く同様の形態で同程度の出血がみられるが、被告人は医師として経験を積み、注射に熟練しており、これまで多数の豊乳術を行つて本件のような事故を起したことがなく(この点は後記認定のとおり)、このような被告人がたまたま注射針刺入時に血管を損傷することがあるとしても、それが左右の乳房部に同時に全く同様の状態で血管を損傷させるということは極めて稀有なことであり、不自然であること、むしろ、このように同様、同程度の出血が生じたことは左右の施術部位にそのような出血を生じさせる他の共通の因素が作用したことを推察させることを総合すれば、刺入時に注射針で血管を損傷した可能性は極めて小さいというべきである。

次に、2の可能性について検討するのに、本件においてはワセリンの注入に当り二CC注射筒を左右それぞれ三〇回ずつ交換して注入を行ないそれぞれ約一五分ないし二〇分ずつ注入に時間を要しており、その間に針先が動揺、移動しなかつたという保障はない。しかし本件の施術においては前記のように注射針を固定して注入が行われたのであるから、注入時に針先が動揺、移動したとしてもそれは僅少、狭隘な範囲内のものと解してよく、注入部位が乳腺下結合組織(解剖所見によつても、注入されたワセリンは乳腺下結合組織の付近に貯留していることが認められるので施術者の意図した注入部位にほぼ正しく注入されたとみられる。)であるから針先は血管分布の少ない部位を僅少、胸隘な範囲で動揺、移動するに過ぎないと考えられ、針先の動揺、移動により血管を損傷したとみるべき可能性は極めて小さいし、また左右の施術部位に全く同様、同程度の出血があつたことが更にその可能性を弱めるものであることは前記1で考察したところと同様であるから、針先の動揺、移動により血管を損傷したという可能性はほとんど考慮に値しない。

更に4の可能性について考察すると、米倉紀子はワセリン注入を終えて一〇分ないし一五分後、看護婦により施術部位のマッサージを受け始めたのとほぼ同時くらいに気分の不快を訴えており、その際にはすでに病状がかなり進行した状況にあつたと解されるのであり、他方上野証人供述と前記死亡の経過、解剖所見および死因からみて、米倉紀子の気分の不快をもたらしたものは、同人の死亡をもたらした原因と同じく肺栓塞症であり、この肺栓塞症は徐々に進行したものであつて、同人が気分の不快を訴えたころ、すなわちマッサージを受け始めたころには軽度ながらも肺栓塞症がすでに進行していたものと認められ、マッサージを受け始めて、突如として生じたものではないと解されるから、4の可能性もほとんどないといつてよい。

そこで、3の可能性であるが、上野証人供述第三回公判調書中証人平山峻の供述記載部分(以下平山証人調書(二)という)および証人松井隆弘の当公判廷における供述(以下松井証人供述という)によると、体内に異物を注入する場合には生体の組織反応として、異物を自己の組織内に同化しようとする作用を起し、遊走細胞、線維芽細胞が形成され、結合線維が成長増殖して、ワセリンの如き可分な異物の場合には結合線維の働きにより異物を細分化してこれを線維で包み、自己の組織に同化(いわゆるパラフイノーム)するものであり、この組織同化作用が完成し固着するまで(その期間は少くとも三カ月位)は幼弱な組織となつているものであることが認められ、このことは、本件のワセリンとほぼ同じ成分を有する物質と認められるオルガノーゲン(第七回公判調書中証人湯地貞治の供述記載部分―以下湯地証人調書という)を家兎の腹部の結合組織内に注入して実験した結果によつても確認されている(松井証人供述と押収してある「注入液(オルガノーゲン)注入後の組織像」と題する写真集(昭和四四年押第一五三五号の一二)。

また一旦組織内にワセリンの如き異物が注入されたときは、前記の組織同化作用により異物が結合線維により細分化されて組織内に取り込まれるために組織が硬化する性質があることが前掲の各証拠によつて認められる。

本件においては、米倉紀子が初回に左右の乳房底部の結合組織内にそれぞれ一三〇CCのワセリンの注入を受け、約一カ月後に二回目のワセリン注入を左右それぞれ六〇CCずつ行つたことからして、二回目の注入の当時は初回に注入したワセリンの組織同化作用が進行していた途中であつて、組織の硬化をきたしていた反面において、幼弱な組織により脆弱な組織構成となつていたことが考えられ、かような状態のところに二回目のワセリン注入を行つたために、その圧により組織の一部が局部的に膨張し、組織がその張力に堪えないで断裂し、これに伴つて乳房底部付近の血管が損傷したとみる可能性は極めて大きい。そして、このことは左右の乳房底部付近に全く同様、同程度の出血があつたこととも符合すると思われる。

もつとも、米倉紀子に対するワセリンの注入方法および注入量は前記日比谷整形外科医院において、成人女子に豊乳術を行なう通常の例にしたがつて行われており、同医院においてそれまで約一、五〇〇例の豊乳術を行ない、そのほとんどが米倉紀子の場合と同様の方法で行われてきたのに、本件のような事故が生じたことが一回もないことが被告人の公判廷供述調書、公判廷における供述によつて認められるのに、米倉紀子の場合だけに何故本件のような事故が生じたのかは、事故の原因を異物注入の圧による組織の断裂と解する場合に疑問が生じるところであるが、この点は本体に現われた資料の上では解明不能な何らかの因素によるものとも考えられる。そして、可能な原因として考えられる前記1、2および4の可能性が極めて小さく、かつ3の組織の断裂に伴なう血管の損傷とみる方が、それを可能にするかなりの条件があるうえに解剖所見に合理的な説明を与えることができる以上は、3の可能性が極めて大きいとみるべきである。

第六、本件の訴因についての考察

そこで以上の事実関係をもとに、本件の本位的および予備的各訴因について以下に順次考察する。

一、本位的訴因について

本位的訴因は、被告人が米倉紀子の乳房部に豊乳術を施行するため、注射針によりワセリンを乳房底部の乳腺下結合組織内に注入するに当り、注射針の刺入または補てん液注入時の針先の動揺、移動により血管を損傷したことを前提として被告人の過失をとらえているのであるが、米倉紀子の左右乳房底部の血管損傷が注射針の針先により直接損傷を受けて生じたものと認めるべき可能性は前述のとおり極めて小さく、これを確定することはできない。

したがつて、本位的訴因はその前提となる事実を認めるに足りないのでその証明が十分でないというべきである。

二、予備的訴因について

予備的訴因は、米倉紀子の死をもたらすにいたつた乳房底部の血管損傷が、(一)豊乳術施行に当つての注射針の刺入またはワセリン注入時の注射針の動揺、移動により、針先によつて血管を損傷したか、あるいは(二)ワセリン注入のために乳房底部の組織内部の圧が増大し、その圧により組織の破壊が生じて、これに伴ない血管が損傷したか、右(一)、(二)のいずれかの原因により生じ、注入したワセリンが血管の損傷部位から吸収されたことを前提とし、被告人が豊乳術を行う医師として、かような血管の損傷を招来するのを防止し、あるいは血管損傷の徴候を早期に発見して適宜の処置を講じるために、施術中、常に施術部位における出血の有無を確認すべきであるのに、ワセリン注入時にその確認を怠り、またワセリン注入によつて前記のような乳房底部の組織破壊が生じないようにするために、ワセリン注入に先だちあらかじめ乳房底部のワセリン注入部位を剥離しておくか、注入するワセリンの量を乳房の状態に応じて組織破壊が生じない範囲の量に止めるべきであるのに、あらかじめ乳房底部の剥離をすることなく、また、ワセリン注入の許容量の判定、調整を誤つて、許容限度をこえた量のワセリンを注入したとしてこの点を過失としている。

ところで、米倉紀子の乳房底部の血管損傷が、ワセリン注入による組織内部の圧力の増大により組織が膨張し、組織の断裂が生じたことに伴なつて生じたとみる可能性が極めて大きく、注射針の刺入またはワセリン注入時の注射針の動揺、移動により、針先によつて血管を損傷したことにより生じたとみる可能性が極めて小さいことは前述のとおりであるが、針先により血管を損傷したとみる可能性も皆無というわけではないから、この意味では、確かに予備的訴因において前提としている前記(一)、(二)の原因のいずれかに基因して血管損傷が生じたものといえる。

そこで、被告人に過失があつたとされている出血の有無の確認状況、ワセリン注入部位を事前に剥離しておくべきかどうか、ワセリン注入量の判定、調整を誤つたか否かの各点について順次検討する。

一、出血の有無の確認状況について

前記第三においてみたとおり、被告人が米倉紀子に豊乳術を行なうにあたり、麻酔薬注射のために注射針を乳房底部に刺入する際はその都度陰圧をかけて出血のないことを確認し、また麻酔薬注射を終え、ワセリン注入に移るために一分の一カテラン針を最後にワセリン注入部位まで刺入する際も同様に陰圧をかけて出血のないことを確認しているのであり、被告人の公判廷供述調書、公判廷における供述によれば一般に、注射針による皮下注射を行なう場合には、注射筒に陰圧をかけて出血が認められない(注射筒内に血液が流入しない)ことをもつて、注射部位に血管の損傷がないものと判定するのが注射の常識とされていることが認められるので、以上の段階では被告人の出血の有無の確認に落度がないと認められる。次にワセリン注入時の出血の有無の確認であるが、前記第三および第五において述べたとおり、被告人はワセリン注入に移るために一分の一カテラン針を最後にワセリン注入部位まで刺入し、前記の方法により出血のないことを確認した後、注射針をその状態で、コッヘルおよび左手で固定し、その後は注射筒のみを交換してワセリンを注入したが、注入の開始から終了までは出血の有無確認のための特段の方法を講じていない。

しかし、ワセリン注入の間に、針先の動揺、移動により血管を損傷したとみる可能性は前述のとおりほとんど考慮に値しないのであるからワセリン注入時の針先の動揺、移動による血管損傷のおそれという意味では被告人が特段に出血の有無を確認する方法を講じなかつた点に過失があつたとすることはできない。

しかしながら、本件の豊乳術は多量のワセリンを軟部組織内に注入する施術であつて、ワセリンの注入により組織内部の圧が増大し、その圧により組織が膨張して断裂し、血管が損傷するおそれがあることは前述のとおりであり、かような原因による血管の損傷がワセリン注入の途中において生じる可能性は十分考慮される。本件においてはかような組織の断裂に伴つて血管が損傷したとみる可能性が極めて大きいのであるが、組織の断裂がワセリン注入開始以後のどの時点で生じたかはこれを明らかにする資料がない。もし、ワセリン注入の途中において組織の断裂が生じ、同時に血管の損傷が生じたとすれば、いち早く出血を確認し、それ以上のワセリン注入を中止するとともに適宜の医療処置を施すべきであり、被告人がワセリン注入時に出血の有無確認の方法を講じなかつたことはこのような意味で過失があつたのではないかという疑問がもたれないではない。

しかし、被告人の採用していた豊乳術においては、前述のとおり一旦ワセリンの注入を開始した後は注入部位の出血の有無を確認する方法がないというべきであるし、なお、ワセリンの注入による組織内部の圧力自体により組織が断裂する以上は、そのような圧が生じるほどにかなりの量のワセリンが注入された後に組織の断裂が生じるものと解されるのであり、その場合には如何に早期に、何らかの方法(仮りにその方法があつたとして)で出血の確認ができたとしても、多量のワセリンが静脈内に吸収されるおそれがあり、そのときはどのような医療処置を施しても死亡の結果を阻止できるかは疑問である(上野証人供述によれば、米倉紀子の左右両肺小動脈および毛細血管のワセリン充てん状況においては、その自然排出により回復をまつ以外に医療上の方法はなく、それをまつことができるほどに体力は持久しないことが認められ、多量のワセリンが注入されて、その結果組織の断裂を起し、血管が損傷したときは、もはや本件と同様の経過により死亡の結果が生じるのを阻止できないと考える余地がある)。

ところで、出血の有無の確認をしなかつたことが過失とされるのは、出血の有無の確認方法があり、かつ、その確認をすれば、結果(本件では米倉紀子の死亡)の発生を防止し得たことを必須の前提とするものであるから、本件の如く、出血の有無の確認方法がなく、あるいは出血の確認をしても死亡結果の発生を防止できるかどうか不明であるときは、出血の有無を確認しなかつたことをもつて過失とすることはできないというべきである。

したがつて、ワセリン注入開始以後、被告人が出血の有無の確認をしなかつたことをもつてこの点に過失があるとみることはできない。

二、ワセリン注入前にあらかじめ注入部位を剥離すべきかどうかについて、

ワセリンを注入するに先だち注入部位である乳腺下の結合組織をあらかじめ剥離して、そこに袋を形成しておけば、ワセリン注入による組織内の圧の急激な増大を防ぐことができ、圧の増大による組織の断裂が生じないですむことが考えられる。

平山証人調書(一)、(二)、第九回公判調書中証人大森清一の供述記載部分(以下大森証人調書という)によれば、我が国の或る病院において、昭和四〇年から四一年にかけて約二年間、本件の豊乳術と同様に乳房の乳腺下結合組織内に補てん物質を注射針を用いて注入する方法により豊乳術が試みられたことがあり、この豊乳術においては補てん物質(R、T、Vシリコンと称されるシリコン液であり、注入前に液に添加された薬剤の反応によりシリコン液が餅状に固まる性質をもち、反応するまでは粘稠性がなく水様の液体となつている物質とされている)を注入する前にあらかじめ注入部位である乳腺下結合組織を鈍的に剥離して袋を形成しておき、しかる後に補てん物質を注射針を用いて注入する方法を採用していたものであり、この方法で行われた豊乳術においては補てん物質の注入により組織内の圧が増大して組織が断裂するという結果が生じた例がなかつたことが認められるので、注入前にあらかじめ注入部位を剥離して袋を形成しておくことは組織内の圧の増大による組織の断裂を防止するうえで効果があると認められる。

しかしながら、右の各証拠によればあらかじめ注入部位の結合組織を剥離して行う右の豊乳術においては、結合組織を鈍的に剥離する目的のために、特別の太い注射針の中に、先端が半球形の鈍端となつている内筒針をさしこむことができ、内筒針をさしこんだときは、その半球形の先端が注射針の先端からはみ出るようになつていて、その場合には鈍端の針先となるような特殊の構造の注射器(検察官吉村英三作成の写真撮影報告書)が用いられており、あらかじめ乳房外輪下縁の皮膚表面の一部に小さな切開を加え、前記のとおり鈍端の状態になつている注射器を乳房底部に刺入し、注射器の先端を左右に動かして乳房底部の乳腺下結合組織を剥離して袋を形成し、なお、剥離の際の血管損傷にそなえて、剥離がすんだ後内筒針を抜き去り注射筒に陰圧をかけて暫らく時間をおき、出血のないことを確かめて、しかる後に補てん物質を注入するという方法になつている。そして、注射器を用いて、組織を鈍的に剥離するにはこのような鈍端をもつ太い特殊な注射器を用いることが不可欠なことであつて、先端が鋭利になつている注射器では組織の鈍的剥離に不向きであると認められる。

ところで、被告人が採用していた本件の豊乳術では注射針の先端が鋭利になつているので、これを用いて組織を鈍的に剥離することは不可能であるか、ないしは著しく困難であり、強いて剥離をするときは針先による組織や血管の鋭的損傷の危険を伴なうものと解されるのであり、本件の豊乳術ではあらかじめ注入部位を剥離しておくことは不可能である。

そうだとすると、被告人が米倉紀子に対する本件の豊乳術において、あらかじめ注入部位の組織を剥離しておかなかつたことは、被告人の採用していた豊乳術の方法においてはそのような剥離の方法を取り入れることが不可能なのであり、この点に過失を認めることはできない。

本件の豊乳術ではワセリン注入による組織内部の圧の増大の結果、組織の断裂を起し、血管の損傷が生じる危険を伴なうが、この豊乳術に組織の事前剥離のような有効な危険除去の方法を取り入れることができないとすれば、ほかにその危険除去の有効な方法がない限り、このような豊乳術は行うべきでないという結論に帰着するのであるが、それは本件の豊乳術において、被告人があらかじめ注入部位の組織を剥離しておかなかつたことの当否すなわち過失の有無の問題ではなく、美容整形外科の分野で幾つかの方法が開発されている豊乳術の方法のどれを選択して行うかという豊乳術の方法選択の当否の問題であるといわねばならない。

なお、豊乳術の方法には乳房外輪の下縁付近を大きく外科的に切開して、乳房底部の結合組織を鈍的に剥離して補てん物質を容袋に詰めたものを埋め込むやり方と、ほかに注射法といわれるやり方とがあり、注射法には、前記の鈍端を有する特殊の注射器を用いて注入部位の結合組織を鈍的に剥離したうえで、補てん物質を注射器で注入するやり方と、本件の豊乳術のように、あらかじめ注入部位の結合組織を剥離することなく、鋭利な先端を有する通常の注射器で補てん物質を注入するやり方とが開発されており、これらの方法の是非については、美容整形の効果の面、施術の難易の面、人体に対する施術時の安全性と施術後の影響の面などにおいて、それぞれに一長一短があること、注射法においてもあらかじめ注入部位の結合組織を剥離する方法はその剥離をしない本件の豊乳術に比較すれば補てん物質注入による組織の圧の増大の結果、組織の断裂を起すという危険は少ないが、鈍的剥離の際に血管を損傷するおそれがあり、その床例もみられたことが、前記平山証人調書(一)、(二)、大森証人調書、上野証人供述を総合して認められるのであり、いずれの方法を選択して採用するのがよいかは、施術のもたらす人体の安全に対する影響の面からみた場合でもたやすく断定できない状況にあると理解される。

三、ワセリン注入量の判定を誤つたか否かについて、

米倉紀子の乳房底部の血管損傷が、ワセリンの注入により組織内部の圧が増大し、組織が膨張して断裂し、これに伴つて生じたとみる可能性が極めて大きいことは前述のとおりである。

したがつてこの結果から観察する限り、注入されたワセリンの量が、組織が断裂しないで伸張しうる限度をこえた量であつたといわざるを得ず、この意味では被告人がワセリンの注入量の判定、調整を誤つたものということができる。

ところで、日比谷整形外科医院および被告人が採用していた豊乳術においては、前記のとおりおおむね二回に分けてワセリンを乳房底部に注入する方法であり、初回は成人女子にしておおむね一乳房当り約一二〇CCとし、二回目に形状補正のために注入する量は初回の分と合わせておおむね一乳房当り二〇〇CC位になるように量を定めることとされており、注入量の判定、ことに二回目のそれの判定は、他に適当な手段がないところから施術者が乳房の状態を目で見、手で触れて、その視診、触診により、施術者の経験と勘により、前記の基準量を標準として判定するという方法が採用されていた(被告人の公判における供述)が米倉紀子に対して豊乳術を施行するまでに被告人が行つた約五〇〇例の豊乳術、日比谷整形外科病院全体で行つた約一、五〇〇例の豊乳術においては、このような方法により注入量を決定して一度も組織の断裂と認むべき事故例が生じなかつたことは前述のとおりである。

そして、被告人は、米倉紀子が豊乳術施行の当時二六才の経産婦であり、同条件の普通の成人女子に比べて乳房が貧弱であつたほかには、普通の女子と異なるところがなかつたので、同人の左右の乳房に初回に各一三〇CCを、二回目に各六〇CCを注入したが、被告人の公判廷における供述や司法警察員および検察官に対する供述調書を総合すれば、被告人は二回目の注入量を決定するについて、組織断裂の危険を全く危懼することなく、通常の例にしたがい、前記通常の方法によつて注入量を右のとおり定めたことが認められる。

被告人の行つていた豊乳術の方法はワセリンの注入量を判定する客観的な基準がなく、施術者の経験と勘に頼つてその量を判定するものであつて、本件の如き被術者の死亡事故が発生した以上、結果から遡つて判断すれば、施術者の経験と勘だけに頼る注入量の判定方法では人体の生命に対する危険をはらむことが明らかになつたというべきであるが、本件の死亡事故が起きるまで過去に前記のように長期間にわたり多数の床例を重ねて豊乳術を行ない、その間一度もワセリンの注入量が許容限度量をこえたことを思わせる、本件の如き事故が生じなかつたとすれば、被告人が通常の例にしたがい通常の方法により注入量を決定し、それについて、組織断裂の危険を全く予測しなかつたとしても無理もないことといわねばならない。

美容整形術としての豊乳術において、補てん物質とその施用方法の選択および施用量の決定については施術者によつて区々であり、美容整形界の一般に統一的に支持されているとかあるいは支配的な支持を受けているという方法や基準はなく、その選択や決定は個々の施術者の技術と信念に任かされているといつても過言ではない現状にあることが、本件に現われた資料を通覧して窺われるのである。しかして、美容整形術は本来疾病の治療を目的とするものではなく、人々の美しくありたいと願う美に対する憧れとか醜くさに対する憂いといつた人々の精神的な不満の解消を目的とした消極的な意味での医療行為であつて、事柄の性質上人体の生命の安全保持は第一義とされるべきであり、疾病の治療行為の場合に症状のいかんによつては生命に対する危険が考慮されるときでもなお施術を相当として許容される場合があるのとは比較すべくもないのである。このような事柄の性質と美容整形界において豊乳術の方法が確立されていない前記の現状からすれば、豊乳術を行なう者は生命の安全保持に対して特段の慎重な配慮をなすべきである。

しかし、美容整形術も、人々のもつ精神面の不満を解消することを目的とするもので、社会的に有用なものとしてその存在価値を認められるべき広義の医療行為に属すると解されるから施術当時の美容整形医一般の技術水準に照らし、あるいは自己または同業の積み重ねた研究成果や多数の経験に照らして、学問的技術的能力をもつ医師一般の目から観察して危険でないと判断される手段、方法により施術が行われたときは、たとえ、後日にいたりその手段、方法に、施術当時において予測されなかつた危険を伴なうことが判明したとしても、その手段、方法を採用したことに刑事責任を負わしめる根拠としての過失を認めるべきではないと解される。

本件においては、前述のとおり、結果から云えば、被告人の採用していたワセリン注入量の判定方法が危険を伴なうものであり、そのような判定方法のみに依存した結果ワセリン注入量の判定、調整を誤つたことに帰着するのであるが、本件の豊乳術施行の当時、美容整形界において、豊乳術の方法として確立されたものがなく、施術の手段、方法が施術者の技術と信念に基づいてその選択に任かされていた実情にあり、かつ、注入量を客観的に判定する方法が開発されていなかつた美容整形界の一般的事情のもとでは、被告人が自己およびその属する日比谷整形外科医院において、当時までに経験し、一度も事故をみなかつた多数の床例を基礎とし、通常の例にしたがい、通常の基凖量を標準として、通常の方法である視診、触診により米倉紀子に対して左右各六〇CCのワセリンを注入しても危険がないものと判定し、注入量を決定したことは、医師たる者が前述の観点から観察した場合に一般に危険を予測しないのが通常と思われ、合理的な判定であつたと認められるのであり、この点にも過失を認めることはできない。

四、したがつて、予備的訴因もまた被告人の過失を認めることができないのでその証明が十分でないというべきである。もつとも、被告人の採用していた豊乳術は、以上のようにワセリンの注入量の判定の客観的な方法がなく、経験と勘のみに頼つてその判定を行うことには、本件のような事故につながる危険が伴なううえに、一旦注入部位の組織の断裂が生じたときは注入の途中でそれを判定する有効な方法がなく、かりに判定できても死亡の結果を阻止できるかどうか疑問があるという危険をはらむことが判明した以上、もはやこのような豊乳術を行なうことはこの危険が解消されない限り許されない。

第七、結論

以上のとおり、本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をなすこととし、主文のとおり判決する。

(伊藤豊治)

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